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「自分に似たスタッフ」を求めてしまう管理職の呪いと解呪

サイボウズ式特集「多様性、なんで避けてしまうんだろう」。今回はたらればさんに、「管理者と多様性」についてコラムを執筆いただきました。


皆さんこんにちは。中間管理職の編集長、たられば(@tarareba722)です。

今回サイボウズさんより、「多様性」というテーマでエッセイの依頼をいただきました。

多様性、いろいろと考えたすえわたくしに思いついたのは、(政治政策や社会制度の話ではなく)身の回りの仕事のことでした。中間管理職の皆さまが一度は必ずぶつかる問題、「スタッフは自分のコピー(のような能力を持つ人材)がいいか問題」です。

「自分のコピー」を欲しがる管理職と落とし穴

思い起こせば幾星霜(いくせいそう)、わたくしが30代前半に副編集長へと任命された当時、何人かのスタッフへ仕事を割り振るとき、一番望んでいたのは「自分のコピーが欲しい、上位互換だともっといい」という、大変都合よくそのうえ傲岸不遜(ごうがんふそん)な考えでした。

「自分は優秀なプレーヤーであり、だからこそ副編集長に任命された。ということは、スタッフがみんな自分のようになれば部署の成績は上がる」と信じていたわけです。

しかし、すこし考えれば、そのアイデアがバカげていることがわかります。

たとえば「10人集まって面白いアイデアを10個ずつ考える」というチームを考えた場合、10人が違う個性、違う背景、違う知識を持っていれば、出てくるプランは10×10で100通り。しかし同じ個性、同じ背景、同じ知識を持っている人間が10人集まっても、プランは10通りしか出てきません。

視点が増えれば視界が広がり盲点は減る。けれど、同じ視点しか持たない人間はどれくらい集まっても、視界は広がらないし盲点は盲点のままです。

「中間管理職がスタッフに、自分と同じような人間を求めてしまう弊害」は、上記のような「出てくるアイデアの種類が少なくなること」だけではありません。どちらかというと、もっと深刻なマイナス面があります。

それは、スタッフが次第に「成績(たとえば売上)を上げること」ではなく、「いかに管理者に自分を似せるか」、「何が面白いかではなく管理者がどう考えるか」に思考リソースを使いだす点に現れます。

この状況がなぜヤバいかというと、致命的なほど「エラーの発見」が遅れるんですね。ざっくり言うと管理者がエラーに気づかないと誰もエラーに気づかない。当たり前です。みんな似てる(≒盲点が同じ)んだから。末期になると、スタッフが気づいたって気づかないフリをします。だって管理者が気づかないことに気づいたら「似てない」という証明になってしまうのだし。

「組織」というものは、ある程度以上の多様性があったほうがいい。もっと単純な例として、じゃんけんの「グー」が好きな集団は、もし「パー好きの集団」と出会ったらたやすく全滅してしまうわけです。そう考えると「チョキ好き」「パー好き」「グー好き」と、一定程度バラけていることは、生存戦略上必須な要件といってもいいんですね。

わたくしの愛読している『ワールドトリガー』(葦原大介著)、第221話「遠征選抜試験(19)」(『ジャンプS.Q 2022年5月号』収録)では、敬愛する東春秋先輩がまさにこの「均質化のリスク」について語っています。

「(作品内における)戦闘シミュレーション(ランク戦)において、なぜ1部隊対1部隊でなく、3部隊、4部隊間の混成戦が実施されているのか」という問題に対して、「1部隊対1部隊だと安定を求めて戦術が画一化する可能性が高まり、遠征先で相性の悪いトリガー(※)に当たったとき、何もできずに全滅する可能性もある」という旨を語っています。

※編集部注:作中に存在する架空のテクノロジーのこと。ここではこのテクノロジーを使った武器の意味

『ワールドトリガー』は、そもそも戦闘能力が平均以下である主人公が知恵と工夫で生き延びる名作であり、多様性の重要さが楽しみながらこれでもかと学べる作品なので、未読の方はぜひ楽しんでください。

ちょっと話がずれた気がしますが、進めます。

スタッフが同質だと言語化機会が減り、機会が減ると能力はすぐ錆びる

ここまで書いてきたような、「管理職が自分と似たタイプの就業者を優秀だと思って集めてしまう問題」は、じわじわと真綿で首を締めるように組織が歪んでいくんですが、非常にやっかいなのは、構造的に「そのこと」に気づきづらい…という点にあります。

というのも、管理職にとって「スタッフが自分と似たタイプばかりの組織の管理コミュニケーション」って、すごく楽だから。「やってほしいこと」をいちいち説明・言語化しなくてよいので。

そうすると「通じなさ」にイライラするケースが減るし、説明する時間をほかのタスクに回すこともできてしまう。快適なんですよね…似たタイプに囲まれると。

もちろん、たとえば組織のなかに実力が突出したエースがいて(その人自身が中間管理職であってもいいのですが)、いったんボールを預ければシュートまでもっていくだけの力があれば、「そういう組織」でもいいかもしれません。

チームに藤井聡太五冠(2022.5.31時点)がいて、相手から「将棋で勝負だ」と言われているのであれば、彼ひとりに任せたほうが賢明でしょう。しかし、たいがいのチームに藤井聡太はいないし、もし居たら相手は将棋で勝負はしてくれません。

現代社会における「勝負」の多くは、複雑なルールのうえで複雑な背景を持ったメンバーで戦う必要があります。

そうした状況においては、まず勝負を成り立たせるために、面倒くさくても、手間がかかっても、普段から「なぜこの作業が必要なのか」、「どういう手順で進めるのが正しいか」、「どの作業よりも重要で、どの作業よりは重要でないのか」を言葉にしておくことが大事になってきます。

それともう一点、中間管理職から見て組織内のスタッフに多様性があったほうがいいのは、「成長のモデルケースはいろんなパターンがあったほうがいい」という点です。

ざっくりいうと、生き残って伸びるパターンが“現物”としていろいろ見えていたほうが、新人にとって居心地がいい組織になるということです。

これも「中間管理職あるある」のひとつだと思うのですが、スタッフを評価したり仕事に関する相談を受けたりする際、中間管理職って、どうしても自分を基準に考えてしまいがちなんです。

もちろん、自分の経験を「成功例」と考えるのは悪い話ではありません。とはいえポジショントークでしか語れないし、なにより現実問題として百通りの人生があったら、正解パターンは何千通りもあるわけで、そう考えるとなるべく多くの「実例」があったほうがいいに決まっているわけです。

結婚してもしなくても、子どもがいてもいなくても、趣味があってもなくても、仕事が好きでも嫌いでも、いろいろな生き方があって当たり前だし、その実例が身近にいるかどうか、参考にできるかどうかって、わりと大事なんですよね。

会社のために従業員がいるわけではなく、従業員のために会社があるのですから、職場に「成功例」や「失敗例」をいろいろと参照できる環境にしておくことは、管理者の責務のひとつであるとも思う次第です。

人間は「それぞれ違うこと」をやることで進化した

ちょっと話が横にそれますが、最近読んでとても参考になった本を2冊紹介します。

一冊目は、『知ってるつもり 無知の科学』(スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック著)。認知科学の専門家が非常にロジカルに、人の認知の進化と機能を説明する面白い本です。

人間は、生きた人間を月面へ送って戻ってくることを可能にし、遺伝子組み換えトマトを作り、原子核の発見からわずか40年程度でメガトン級の核弾頭を作りました。とても賢い。

そのいっぽうで、わたしたちは毎日使うはずの通勤定期が入ったパスケースをよく家に置き忘れ、つい数日前笑顔で名刺交換した相手の顔と名前が一致せず、わくわくしながら新刊本を買って帰ったらすでに同じ本が本棚に刺さっており、何度も読み直してこれで完璧だと思って校了のハンコを押した書籍に誤植が発見されます(印刷過程で何かが生まれている可能性も否定できませんが)。

人は、賢いいっぽうでとても愚かなのはなぜなのか。この本によると、人間は、特に個人は、「わからないことがわからない」からだと指摘します。
「ここで言いたいのは、人間は無知である、ということではない。人間は自分が知っているより無知である、ということだ。私たちはみな多かれ少なかれ、『知識の錯覚』、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く」(『知ってるつもり 無知の科学』序章「個人の無知と知識のコミュニティ」より引用)

人は進化の過程で「認知的分業」を獲得して、版図を広げてきました。社会を作り、協力することで、人間より遥かに大きく、遥かに力強く、遥かに鋭い爪や牙を持った動物を仕留め、調理し、保管し、分け合って、地球上のあらゆる場所に住めるようになりました。こうした行動(分業)の延長線上に農業があり工業があり、ついに人は月面に辿りついたわけです。

つまり人間の営為は、集団、社会のなかでこそ発揮されるものであり、集団内でどう機能するか、割り振られた分業をどうこなすかが重要になってきます。

ちなみにこの考え方を延長すると、「知性」というものさしで「個々人の賢さ」を測るという行為は、実はあんまり意味がなくなります。そもそも一人でできることなんて、組織にとってはそれほど意味がない。成果が小さすぎる。

それよりも「集団のなかでどのように機能しているか、どれくらい役立っているか」という能力のほうがよほど重要だ、と本書は語ります。

「知性は、個人がたった一人で問題の解決に取り組むという環境のなかで進化してきたのではない。集団的協業という背景の下で進化してきたのであり、私たちの思考は他者のそれと相互にかかわりながら、相互依存的に進化してきたのだ。ハチの群れと同じように、それぞれの個体が特定の役割に精通すると、その結果として生まれる集団的知能は部分の総和を超える」(同書、第六章「他者を使って考える」より引用)

ここで重要なのは(もちろん同じ能力が高いメンバーが必要な場面もありつつ)、多くの場面で「組織内の役割が違うこと」だったりします。

マンモスを仕留める際、屈強な戦士が10名揃うことよりも、落とし穴を掘る人、マンモスを見つけて誘導できる人、落としたあとで仕留められる人、仕留めたあと料理できる人、それらの人々を取りまとめて各作業を指示できる人…と分かれているほうが組織として有利なわけです。すくなくともそうやって、分業して人類は生き延び、進化してきた。

そこにおいて大切なのは、「指示できる人」がきちんと目をこらして各人の適性を観察して、作業を分配することです。

多様性を抱える社会に大切なのは「最低限の礼節」

もう一冊は、多様性を考慮した組織が必然的に背負うことになる大きな宿題のひとつ、「自分と違う人が近くにいる状況を、どうやって受け入れるか」、という話で参考になる本です。

自分とまったく違う考えを持つ人と、どう一緒に作業するか。以下、そういうときにわたくしが参考にした本が、『不寛容論』(森本あんり著)です。「多様性」について論じた本ではなく「寛容」について書かれた本ではありますが、大変参考になる内容でした。

著者である森本あんり氏は、宗教史の専門家です。なぜ宗教史の専門家が「(不)寛容」を研究するかといえば、いま「多様性」を掲げる自由主義社会のリーダー、アメリカ合衆国はもともと「ピューリタン(清教徒)」という、厳格な教義を持つキリスト教徒のなかでも特に教義に対して純粋であることを選び取った人々が作り上げた国だからですね。

1620年、メイフラワー号に乗って新大陸へやってきた「ピルグリム・ファーザーズ」は、そもそもイギリスの宗教的迫害から逃れた人々でした。寒村出身の彼らは所持金に乏しく、現地に住む人々と軋轢(あつれき)を抱え、さらに船内には清教徒だけでなく多くの実務者も一緒に乗船していました。

故郷から貧しいまま無法地帯へ追い立てられ、信教さえ異なる者が混じるなかで、サバイバルのために団結すべく編み出した手法が「契約」でした。

もともと「神との契約」を奉じるキリスト教徒にとって、「契約」という概念は馴染みが深いものだったのでしょう。建国の父たちによる「契約」の概念は、こののちアメリカ合衆国の建国の理念と憲法に継承されてゆく、と本書は説明します。

「契約」は、一見無味乾燥な書類上のやりとりを想起しますが、なにげに「わかり合えること」と「わかり合えないこと」を区別し、「わかり合えるところ」だけに絞ってやり取りを続けるための重要な手段です。

そしてなにより本書で「寛容」、つまり「多様な組織で異なる他者と向き合ううえで大事な、引くべきライン」を語るうえで、契約というのは重要な概念だと感じています。

異なる背景を持った人間同士が、どうやって「契約」まで辿りつくのか。そこで重要なのが「mere civility(最低限の礼節)」だと本書は説明しています。

「礼節は、敬意がなくても可能である。相手を心から承認していなくても、その信念や行動に嫌悪感をもっていても、なお可能である。特定の宗教や宗旨を共有する必要もない」(『不寛容論』 第七章「異形者の偉業」より引用)

「人格とは秘密をもった存在である。人間が人間である以上、つまり各人が心という自分だけの内面世界をもった存在である以上、どんなに親しくても、最後まで完全にわかり合えるということはない。それでも、受け入れることはできる。そして、理解できないままに受け入れることを、愛と呼ぶ」(同書、エピローグ「寛容と理解の違い」より引用)

同僚も隣人も商売相手もSNSでよく話しかけてくる人も、好きになる必要はないんですよね。共感する必要もない。ただ「契約」すればいい

腹が立つことには腹を立てていいし、時には「あなたのここが嫌いです」と言ってもいい。それでもギリギリ話し合いの立ち位置は保ち続ける必要があるし、同僚であること、隣人であること、同じ場所にいることは、受け入れ続けたほうがいい。そのほうが立ち去るよりはマシだ、と本書は語ります。

(いやまあわたくしはそこまで過激ではなく、話が通じない同僚とは離れたほうがいいし、隣人が我慢できなければ我慢し続けたり過酷な交渉を繰り返すよりは引っ越し先を探したほうがいいとは思いますが…)。

この、「わかり合えないけど話し合う」ために必要なのが「最低限の礼節」なわけです。

組織で多様性を保ち続けるのって、大変です。心理的なコストが大きく、効果が出るのに時間がかかります。それでもやったほうがいいし、やらざるをえないと思うし、そのための数少ない有効な手段が、「最低限の礼節を持って付き合う」ということだと信じています。

まとめに代えて

もう15年以上前ですが、某自動車メーカーの開発者とちょっと面白い雑談をしました。
 
工業製品の集合体である自動車が、どうすればより効率よく(より少ない燃料で遠くまで)走れるか研究していた際に、「アネハヅル」が参考になったというのです。

アネハヅルとは、チベット高原などに住む鶴(ツル)の仲間で、高々度(5000~8000m)を飛び、ヒマラヤ山脈を越えて越冬することで知られている鳥です。あまりに高く飛ぶので、しばらくは現地の人々の単なる伝説(つまりウソ)だと思われていたそうです。

「ヒマラヤを越えるため極限まで効率化されているはずのアネハヅルの羽は、一本一本形状が違うんです。すべて形と役割が微妙に違っていて、それが組み合わさることで一体のアネハヅルになって、それが超高効率なボディになる。ある部分が最高効率でも意味がないんですよ。組み合わさった時にどういう性能を発揮するかだけが重要なんです」と、たしかそういう話を伺いました。

いま中間管理職としてスタッフと一緒に働いていると、時々この話を思い出します。自分も「組織の一部」であり、どうすれば全体がうまく機能するか。

それぞれの組織にとって適したやり方があるのだと思いますが、とりあえずわたくしは、「最低限の礼節」をもって話し続けるしかないなあ…と思っております。そうやって話を聞いていると、自分とは全然違っていることがわかって、「おお…多様性……」と、ちょっとだけホッとしたりしています。

※この記事は、サイボウズ式特集「多様性、なんで避けてしまうんだろう」の連載記事として2022年5月31日に公開されたものです。

企画:鮫島みな(サイボウズ)/執筆:たられば/編集:野阪拓海(ノオト)/イラスト:iziz


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