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40歳を超えたぼくの「人生2周目戦略」。他人との比較をやめ、本当に大切なことにこだわり始めた

サイボウズ式特集「ブロガーズ・コラム」。元コピーライターで、現在は企業の事業や組織開発といった創造的活動の支援に取り組んでいるいぬじんさんに「人生2周目の生き方。1周目との違い」について執筆いただきました。人生2周目について、いぬじんさんとお話ししたサイボウズ式チャンネルのラジオもお届けします。


いきなりですが、人生は楽しいですか?

ぼくは今、人生を楽しんでいる。

もちろん辛いときもあれば悲しいときもあるけれど、それも含めて自分の人生を満喫していると思う。

じゃあずっとそうだったか?というと決してそういうわけではない。

中年にさしかかったころ、ぼくはこれまでに経験したことのない虚無感の中にいた。

はじまりは仕事の前に少し立ち寄った喫茶店を出たときだった。職場に向かう地下通路に足を一歩踏み出したとき、かかとにひそかに隠されていた停止スイッチを押してしまったかのように全身の力が抜けて、その場から動けなくなった。人々が足早にそれぞれの目的地へと向かう流れの中で、ぼくは呆然と立ち尽くしていた。

それでも何かをしなければと思って無理に息を吸い込むと、それが何か最後の合図であったかのように、見たこともない灰色をした、ずしりと重いため息が抜けもれていった。

今考えるとあのときに、ぼくがこれまで頼りにしてきたいろんなものは失われてしまったのだと思う。

何日も徹夜できる粘り強さ。これが正しいと強く思えたときにそれを貫ける自信。そして未来は今よりももっとよくなるという根拠のない期待。そういったものを、ぼくは喫茶店の前に全部落としてきてしまった。

それからは本当にひどい毎日だった。

新しいアイデアは出てこないし、プレゼンテーションにも力が入らない。人間関係では孤立しやすく、何をやっても楽しいと思えない。かといって家に帰っても心は休まらなかった。子どもとすごす時間は退屈で、とても長く感じられた。

この時間があれば自分は何かほかの勉強ができるのではないか、何か別のスキルを高めることができるのではないか、と焦っていた。そのせいで家にいる時間が余計につまらなく、辛いものになっていた。

ライバルたちは週末にセミナーや研修に出かけたり、資格のための勉強をしたり、人脈を広げたりすることに熱心で、そのことがぼくの焦りをひどくした。家族が寝静まった深夜に勉強をしはじめたが、睡眠不足ですぐに体調を崩し、元に戻るのに半年以上かかってしまった。

一体どうすればいいのか、まったくわからなかった。

原因には心当たりはあった。加齢による体力と気力の低下。情報革命後の経済社会の大きな変化についていけない自分。終わらない子育てに疲れている状況。しかしまあ誰だって多かれ少なかれすぐに解決できない問題を抱えているものだ。そのときぼくが求めていたのは原因の解明とその解決方法の発見ではなかった。

ぼくがわからなかったのは、そもそも自分はいったいどこへ向かえばいいのか、ということだった

自分探し、はじめました

そんなわけで、ぼくは再び自分探しをはじめた。

再び、というのは若いころにさんざんやった自覚があったからだ。そして若かりし日のぼくは「よし、書くことで生きていこう」「コピーライターとして生きていこう」という結論を出した。

だか、いつのまにかコピーを書く機会も情熱も失って、環境に順応することばかり考えていた。書くこと自体は細々とブログを続けているおかげでなんとかやめずにいたが、一体いま自分は何のために生き、何を目指しているのか、ということがすっかりなくなってしまっていたのだった。

生きる目的を見失ってしまったぼくができることは、ほかの人たちがどんな目的をもって生きているのかを知ることではないかと思った。

それで、ぼくはいろんな人たちの話を聞きまくった。心理学の研究者、メーカーの開発者、人事のマネージャー、経営者、小説家、芸術家、医師、農家…。どの方も忙しいのにとてもやさしく、ていねいに対話につきあってくださった。

さて、そんなにたくさんの人々と話をしたのだから、何かよい気づきが得られて、人生が好転しました、ということであれば話は早いのだが、実際はそううまくことは運ばなかった。

たしかにぼくは、今世の中で活躍しているすばらしい人たちの話をいくつも聞いたのだが、それらを聞けば聞くほど、これは今自分が聞きたい言葉ではない、という気持ちが増していった。

彼らは自分が大切にしている価値観、大切にしている時間、大切にしている人たちについてたっぷりと話をしてくれた。そしてそのいくつかは自分にも当てはまったし、当てはまらなくても、とても参考になった。やはり人生をちゃんと生きている人たちの考え方はすごいな、とも思った。

だが、どれひとつとっても、それをそのまま自分の大切なものとして使えそうにはないし、今自分が抱えている空虚さから抜け出すヒントにはならなかった

人生は毎日の積み重ね、その日の自分の生きた時間が自分自身を形づくっている、という考え方を教えてくれた人がいた。ぼくはそれをすばらしい考え方だと思った。

だが、ぼくは今空っぽなのだ。空っぽの自分が何日生きようとも、ゼロ足すゼロはゼロ。何も積み重ならない。そう思うと、その人の考えを素直に受け入れることができなかった。ただ、何か、これは自分が聞きたい言葉ではない、何かが違う、という違和感が強く残った。

そして、いろんな人に話を聞けば聞くほど、その違和感は大きくなっていった。

「あなたは十分に幸せなのだと思います」

せっかく相手に時間をもらっているのに、よい反応もできず、モヤモヤはどんどん大きくなっていった。相手の方々に申し訳ないのでそろそろやめよう、と思った。そして最後に、独学で農業をはじめた方にメールインタビューをさせてもらった。

その方は、ぼくが自分の悩みについてくどくどと書いたメールを読んで、こんな返事をしてくれた。

「ええと、あなたは十分に幸せなのだと思います。仕事があって、家族がいて、その上で人生をもっとよくしたいと思うことができる…。農業は大変です。不確実な要素が多すぎて、生活を安定させることがままならない。私は今、目の前の生活をどうしていくか、そればかりを考えています」

ぼくはこの返事を読んで、ハッとした。見透かされたと思った。目の前にあることに真剣に取り組む気が起こらず、何か抜け道や裏技が見つからないかと考えている自分がいることを見破られたのだと思った。

たしかにぼくは十分に幸せだった。それなのに週末に努力するライバルや、世の中で活躍する人たちばかりを気にして、自分は不幸だと思うようになっていた。果てしのない競争の世界に身を置いて、報われるかどうかもわからない努力をし続けることにすっかり疲れてしまっていた。

このままじゃいけない。このままじゃ自分には何も残らない。何か自分にしか見えないような特別な突破口を見つけないと、何も変わらない。そう思っていた。

今、自分が手にしている幸せを見ようとせず、ここではないどこかをいつも探し、探すこと自体に妙な満足感を覚えていた。

これまでの自分を肯定する、ねぎらってやる

どうしてぼくは自分の幸せに気づかないようにしていたのだろう。はっきりとはわからない。ただ、心のどこかで、現状に満足しちゃダメだ、と強く思っていた気がする。家族がいて、仕事があって、ブログという趣味もあって、いやあ自分は幸せだなあ、と思ってしまったら、もうこれ以上成長できない、そう感じていた気がする。

終わりのない成長という文脈の中に身を置き続けているふりをすることで、何かやった気になって、安心したかったのだと思う。

若いころはたしかにそれでよかった。だけど家族ができ、取り組む仕事も複雑になり、自分だけが成長すればよかった時間はとっくに終わっていた。今のぼくに必要なのは、成長することではない。これまでの自分の努力を自分で認めてやり、よくがんばってきたねと十分にねぎらってやることだったのだ。

そして、いつまでも自分だけの成長を願い、終わりのない競争に没頭し、それ以外の全てを無視し続ける、そんな生き方を終わらせてやることが必要だったのだ。

学生のころから夢だったコピーライターの仕事をすることができた。すてきな賞をいくつももらったし、それなりに納得のいく仕事ができた。好きな人と結婚し、子育ても経験できた。ずっと無趣味だったのに、ブログという長く楽しめる趣味を見つけることができた。

そして何より、今こうやって、やってきたことを振り返ることができるくらい、長い人生を送ることができた。

ああ、ぼくはなんて幸せだったんだろう。

ありがとう、これまでの人生。何もかも。

そのことに気づいたとき、ぼくの自分探しは終わりを迎えていた。

いろんなことを、終わらせる

自分探しを終わらせたあと、ぼくがはじめにやったのは、これまで当たり前だと思ってきたことをもう一度見つめ直して、思いきってやめることだ。

まずお酒を飲むのをやめた。

もともとそんなに好きでもなかったし、お酒でのおつきあいもあまり得意ではなかった。ただ、お酒を飲まないと人と交流できない、つきあいの悪いやつは出世できない、そう思いこんで無理に続けていた。

いざやめてみると、帰宅する時間が早くなり、朝も調子がよく、また、お酒を飲まなくてもちゃんとつきあい続けてくれる人たちがいることがわかった。

それから、ビジネス書を読むのをやめた。

ぼくがビジネス書を読んでいた理由は、不安からだった。今のトレンドから置いていかれないように最新の情報を収集し、自分の頭の中をアップデートし続けないと、ライバルたちに差をつけられる。得意先からバカにされる。世の中から見捨てられる。そういう気持ちがビジネス書を手に取らせた。

だが振り返ってみると、これまで読んできたビジネス書の内容は数年後にはまったく役に立たないものばかりだった。それで、ぼくはビジネス書を読む代わりに、小説をはじめとして、自分が今本当に読みたい本を読むことに集中しはじめた。

そして、これが一番大事なことだが、「ここではないどこか」に想いを巡らせるのをやめた

これまでのぼくは、「本来の自分がいるべき場所は今の場所ではない」「ここではないどこかに理想郷があり、今の自分はそこにたどりつくための仮の姿でしかない」といつも心のどこかで思っていた。そう思うことで、目の前の辛いことや、不本意なことから目を背け、ショックを正面から受け入れないようにしていた。それは、ある程度は自己防衛のための手段として必要だったのかもしれない。

だが、あまりにも長い間、そうやって目の前の現実から逃げ続けたせいで、ぼくは「いまここ」を懸命に生きる態度をすっかり失ってしまっていた。

自分探しを終えて、ぼくが気づいたのは、これからの人生は、「いまここ」からしか始まらない、ということだ。次の一歩は、どこか見知らぬ素晴らしい場所からではなく、この何の変哲もない、見慣れた、つまらない、退屈な光景からしか始まらないのだ。

もし、今よりもよい人生を送りたいのならば、目の前の現実を受け入れて、これを少しでもマシなものに変えるしかない。そのかっこわるさ、苦しさ、めんどくささをすべて受け入れて、一歩前に踏み出すことこそ、ぼくがやるべきことだったのだ。

2周目の人生をはじめる

これまでの人生を感謝とともに終わらせて、目の前の現実から次の一歩を踏み出す。

それは、いわば2周目の人生をはじめるようなものだと思う。

1周目の人生は、ゲームのルールがとてもわかりやすかった。誰が見ても「ああ、それはすごいね」というわかりやすい成功を目指して努力すればよかった。偏差値の高い学校に合格すること。女の子にモテること。やりたい職業につくこと。大きな賞をもらうこと。同年代の人間よりも先に出世すること。そしてお金をたくさん儲けること。

ところが、こういったわかりやすい成功というものは、どれも他人からの評価なので、修行の足りないぼくは、短絡的に、他人から認められたい、他人から尊敬されたい、という気持ちばかりを募らせてしまっていた

そうなると人生はどんどん上すべりしていく。他人の目ばかりを気にして、自分の中での判断基準を作れなくなる。それでもうまくいっているときは問題ないが、中心から弾き飛ばされてしまったら大変だ。みるみる自信を失い、誰かの甘い言葉にすがり、「ここではないどこか」を夢想するようになってしまう。今のゲームから降りることもできず、かといって人生を賭けた勝負もせず、身動きが取れなくなっていく。

さて、そういう経験をしてからの2周目の人生だ。もう同じゲームをプレイする必要はない。自分にとって一番楽しくて、一番やりごたえのあるゲームをプレイすればいい。

その方法はとても簡単。

自分でプレイしたいゲームを作ることだ。2周目の人生の遊び方を、自分で決めてしまえばいいのだ。

思い返してみると、これまでのぼくはRPGゲームをソロプレイするような人生を送っていた。とにかくたくさん経験値を貯めてレベルを上げ、武器や防具を探し、より上のステージを目指して成長を続けていく人生。

そこにはいつも「自分の成長」が中心にあり、他人は「倒す相手」でしかなかった。このゲームの問題点は、加齢による体力と気力の低下、子育て中の行動力の減少、あるいは不慮の事故、その他の原因によって引き起こされるステータスの低下なんてまったく考慮されていない、ということだ。これからもっと歳をとっていって、成長どころか衰退の道しか残されていないのに、ぼくはこのゲームを続けていこうとしていたのだ。

そこでぼくは、2周目の人生では「育てゲー」をはじめることにした。このゲームでは、主人公はぼくではない。自分の子どもだったり、いっしょに仕事する人だったり、得意先だったり、たまたま同じ場所に出くわしたひとだったり。目の前にいる人たちが主役だ。ぼくの役割は、この人たちが気持ちよく自分のやりたいことに取り組み、うれしい成果をあげるために、とにかく応援することだ。

そして肝心なのは、この「育てゲー」では何をゴールとするのか、どんなストーリーが待っているのか、どんなアイテムが使えるのか、そして何がこのゲームの醍醐味なのか、全部自分で決めることができる、ということだ。

2周目の人生はここが違う

そうやって、2周目の人生をプレイしはじめたら、目に映る景色がまったく違うものに見えてきた。

これまでは「勝つこと」や「成長すること」を心のどこかで最優先にしていたが、2周目からは自分が大切にすることを優先して生きるようになった

他人からの評価や会社での地位を欲しがっていたが、自分で目標を勝手に決めてそれに向かって勝手に進むことを楽しめるようになった。

周りで活躍する同年代の人々に嫉妬していたが、今はそんな素晴らしいライバルがいることに感謝しているし、変なプライドに邪魔されずに、彼らに素直に教えを乞うようにもなった。

また、これまでは「現在」という時間は、ぼくにとって輝かしい未来を築くために消費されるべき手段だった。未来のためなら現在の自分をどれだけ痛めつけてもいい。寝不足になろうが、感受性が失われようが、性格がいびつになろうが、徹底的に努力すればいい。そう考えていたように思う。

だが2周目では、そういうのはやめた。それよりも「いまここ」の時間を悔いのないようにすごすことができているか、ということを大事にするようになった

「いまここ」にいる人たちと気持ちのいい時間をすごせているか。「いまここ」でできることを精一杯取り組めているか。そして「いまここ」にいる自分自身が感じ取っていることを大切にできているか。そう思って暮らしていると、不思議と、今日は楽しかったな、と思える日が増えてきたように感じる。不完全燃焼が減ったのだ。

ほかにも1周目の人生と2周目の人生でここが違う、ということがいろいろとあるので少し表にまとめてみた。誰かの参考になればとてもうれしい。

そして人生は続く

そんなわけで、無事に2周目の人生をはじめたぼくだが、もちろん前途多難である。

人生を見る目が変わったからといって、そんなに何もかもがよい方向に進むわけではない。辛い出来事もあるし、不平不満もいろいろと出てくる。おまけに年を取って体力も気力も落ちているので、今日はすごく調子がいいな、と思える日なんてほとんどない。

だけど毎日がとても楽しい。今、ぼくは自分の人生をちゃんと生きていると実感できる。辛いことも楽しいことも、全部自分の人生に起きている出来事であり、それを全身で受け止めて、たっぷりと味わうことができていると感じる。

たしかにぼくは、あの地下街の喫茶店の前で、これまでアテにしてきた自分の力を全部落っことしてしまった。そしてそのおかげで心はぐっと軽くなり、自由になった。これまでのこだわりを捨て、情けないことやかっこ悪いことを受け入れ、「いまここ」を大切して生きている。

もし、あなたが今の人生を空虚に感じていて、何もかもが楽しいと思えない日がずっと続いているなら、そろそろタイミングなのかもしれない。

さあいっしょに、2周目の人生をはじめませんか。

※この記事は、サイボウズ式特集「ブロガーズ・コラム」の連載記事として2021年1月14日に公開されたものです。

イラスト:マツナガエイコ

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