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「できませんと言うのは負けだ」という思い込みから、頑張りすぎてしまった話


「頑張ってね」「頑張ります」 日々なにげなく使っている「頑張る」という表現。ふと、辞典で意味を引いてみました。

1. 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して―・る」

2. 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我(が)を張る。「―・って自説を譲らない」

3. ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が―・っているので入れない」

―デジタル大辞泉より―

「困難にめげないで我慢してやり抜く」ーーなかなか大変そうな意味ですね。

とはいえ、何かを乗り越えようとするとき、自分の可能性を伸ばそうとするときに「頑張る」というのは必要なこと。その先にある達成感と成長の手応えは、多くの人が感じたことのあるものだろうと思います。

一方で「頑張りすぎないでね」ともよく言われます。わたしも「頑張りすぎ」てしまって心身に不調を起こした経験があり、何事も「ほどほど」が一番、と思うようになりました。

頭では分かっているのに、なぜわたしたちはつい「頑張りすぎ」てしまうのでしょうか?

「頑張りすぎて」しまった過去の話

わたしが「頑張りすぎて」しまったのは30歳を過ぎた頃。ある小さなベンチャー企業の立ち上げをしていたときでした。それまで勤めていた上場企業を辞め、小さな会社に転職したのです。

当時は意欲に溢れ、自分がこの会社を背負うんだという気持ちでいっぱい。実際、人数が少なかったこともあり業務の幅も広く、様々な新しいことに取り組めるチャンスがたくさんで、とても刺激的な日々でした。

しかし、やってもやっても業務が終わらない。課せられた高すぎるハードルにどうやったら届くのか、まったく見込みすら見えない。そんな厳しい現状が立ちはだかります。

最初の興奮はあっという間に覚め、これは大変なところへ参画してしまったぞ、と思ったときには山のような業務を抱えることに。

上司も同僚も尊敬できる人たちでしたし、それぞれ立派な経歴のある方たちで、相談すればアドバイスしてもらえる環境は整っています。

それでもわたしは仕事を抱え込み、自分ひとりで悩み続けてしまった結果、「頑張ります」をただ繰り返すのみになってしまいました。

なぜわたしはそうしてしまったんだろう?

上司から「目標は達成できそうなのか」と尋ねられれば「頑張ります」と答える。 こんな会話を繰り返し、どんどん追い詰められていった結果、わたしは心身に不調をきたします。

いま思えば、わたしがやるべきは「頑張ります」と言って自分で業務を抱えるのではなく、何が今課題で、何に困っているのか、何について手助けが欲しいのかの分析と分類であり、ただやみくもに「頑張る」ことではなかった。

当時はそれが理解できておらず、まだキャリアの浅い自分を認めて仲間に受け入れてくれた会社に対し、そんな弱音を吐いてはいけない、と思い込んでしまっていました。

そうして自分の困りごとを言い出せないまま、ただひたすらに目の前の業務を「こなす」ことに必死になり、膨れていく仕事量を、ただ漫然と受け入れてしまった。

それは今思うと「できません、と言うのは負けだ」という思い込みからでした。

「負け」が何を指していたのか、自分でもよく分かっていません。上司であったり、課せられた仕事に対してであったり、そもそも自分自身に対して絶対に負けたくない、と意地を張っていたのかもしれません。

とにかく「頑張ります」を繰り返し、思考停止状態に陥ったまま身体が壊れ、ある日、バタリと倒れてしまうことになるのです。

「頑張りすぎ」は後ろめたさの裏返し?

療養のために会社を退職し、仕事を休んで、ゆっくり考える時間が取れました。カウンセリングにも通い、なぜ自分が「頑張りすぎて」しまったのか、理由を深堀りする時間も作りました。

なぜ、わたしは「頑張りすぎて」しまったのだろう?もちろん環境がそうさせた、というのは少なくない要因のひとつだったかもしれません。

でも、外部要因にすべてを押し付けてしまったら、きっと同じことを繰り返す。そう思い、何度も自問自答を繰り返しました。

そこで気づいたのが、わたし自身にとって「頑張る」というのは「期待を裏切りたくないから」で、「自分の期待されている能力と、実力の乖離を認めたくないから」だったのかもしれない、ということ。

わたしはキャリアのスタートが遅く、きちんと会社に所属して、本気で仕事に取り組み始めたのは20代半ばを過ぎてから。同世代に比べたら、かなり遅いスタートでした。その差を埋めるために必死に働き、なんとか掴んだチャンスに、心身がついていけなかった。

それはわたしの弱さでもありましたが、同時に「仕事を進める技術」をまだ知らなさすぎたせいもあったのかもしれません。

その技術力不足に気づけず、ただやみくもに「頑張ります」と言い、残業や長時間労働でその穴を埋めていたのは、期待されていることに対して、自分の実力が追いついていないことが、後ろめたかったのです。

「頑張りすぎる」のはもしかして技術が足りていないのかも?

そのエピソードを経て、わたし自身、「頑張ります」と言いたくなるときは、一度立ち止まるようになりました。

「頑張ります」と言いたくなるとき、本当にそのための筋道は見えているのか?実力に対し、無理な穴埋めをしようとしていないか?を自分で点検するようにしたのです。

もちろん今でも「頑張ります」と言うときはあります。ただそれは、任された仕事に対して自分の中で課題とその解決への筋道が見えており、その詳細を説明するまでもない、と思ったときに限り、「大枠では問題ありません、ただ努力は必要です」という意味で使うようになりました。

「頑張る」冒頭で引いた辞書の意味を改めて確認してみると「困難にめげないで我慢してやり抜く」とあります。

今こうして「そのがんばりは、何のため?」というテーマで振り返ったとき、わたしが頑張る理由は、困難を乗り越えて自分が成長したいから、そしてその先にある景色を見たいから、だとはっきり自覚しています。

でも、そのために「頑張りすぎる」のは、得策ではありません。なぜなら「頑張りすぎる」状態は、長く続けるのが難しいからです。

長く続けられない状態を無理に維持すると、必ずどこかに不調が起きます。それは身体かもしれないし、心かもしれない。もしかしたら、身近な人との人間関係かもしれません。

必要なのは客観的な視点と知識、そして判断力

そんな状態で働き、生きるのはあまりにしんどい。「頑張る」のは良いとして、「頑張りすぎ」はもうやめませんか。わたしたちに必要なのは、無理な頑張り、無駄な頑張りではありません。

必要なのは、課題を分析し、分類して、自分ひとりでは解決できないと冷静に判断する客観的な視点と、抽出した課題を解決する方法を探すための知識、そして誰かに助けを求める判断力です。

無理に「頑張ります」と繰り返すくらいなら、今どこで詰まっているのか、俯瞰で課題を抽出するくせをつけましょう。課題を抽出するとは、目標と現状の差分をとらえ、その道筋を立てることです。

マインドマップや付箋を使い、思っていることをすべて書き出して、自分にとって何が一番ボトルネックになっているのか、難易度別にグルーピングするのも手法のひとつです。

自分はいま何のために頑張ろうとしているのか、常に意識してみましょう。

そしてその課題と、自分の能力のバランスが取れていない、と気づいたら、すぐに回りに相談し、解決の糸口をもらうようにするほうが、はるかに組織全体としては健康的なのです。

誰かの「言い出しにくさ」に手を差し出してあげてほしい

他方、もしメンバーや部下が「頑張ります」と連呼するようであれば、周りの人もそっと手を差し出してあげてほしいと思います。

必ずしも直接的な解決を与えられるとは限りません。それでも、相手が何につまづいているのか、どんな課題を抱えているのか、問題を一緒に探すための「壁打ち相手」にはなれるだろうと思うのです。

誰かが「頑張ります」と言って抱え込んでしまうとき、本人に後ろめたさがあるのかもしれない。言い出しにくい心の動きがあるのかもしれない。

周りがそう意識して声をかけあい、ヘルプを出しやすい状況にしていくことは、持続性の高い組織を作るために必要なプロセスだと思います。

そうやってお互いがお互いの「無駄な頑張り」を解消するための手助けができ、お互いの課題を第三者的視点で点検しあえるようになれれば、適切な負荷を持って課題へ取り組み、乗り越えて解決することで、成長の機会を得られる人が増えるかもしれない。

そうすることで「適切な頑張り」を持って、みんなが手応えを感じるチーム作りをしていけるのではないでしょうか。そんなふうに思っています。

※この記事は、サイボウズ式特集「そのがんばりは、何のため?」の連載記事として2020年6月25日に公開されたものです。

イラスト:マツナガエイコ

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