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「普通」なぼくだけが損している? いや、本当はずっと「多様」の中にいたんだ

特集「多様性、なんで避けてしまうんだろう」。元コピーライターで、現在は企業の事業・創造的活動の支援に取り組んでいるいぬじんさんに、「多様性について思うこと」を執筆いただきました。


「多様」じゃない自分が損している気持ちになる

仕事の中で「多様性」について語られる場面は、こういうのが多い気がする。

「Aさんは数字が得意じゃないので、この仕事はムリだとおっしゃっていて……」
「Bさんは飲み会が苦手なので、できれば参加したくないそうで……」
「Cさんはお子さんが小さいので、早く仕事を切り上げたいそうで……」
「そうか……まあ、多様性の時代だからねえ」

不思議なのは、なんとなく、そういう話の中にいると、まるで自分たちはそうじゃない側の立場であるかのように思えてしまうことである。自分たちは「普通」で、そうではない「多様」な人たちがいるような……。

本当は、ぼくだって数字が苦手だからできるだけデータとか触りたくない。お酒も飲めないから、あまり飲み会には参加したくない。子どもと過ごす時間が欲しいから、早く帰宅したい。それらを我慢しているのに……という感情が出てくる。「『多様』な人たちだけが特別扱いされて、自分だけがじっと我慢しているなんて不公平」という気持ちになってしまう。

また、そういう気持ちは、なんとなく伝染してしまう。その場に居合わせた人同士で、「自分たちだけが損している」という感情が共有されるのだ。もしかすると、「まあ、多様性の時代だからねえ」の背後には、こんな本音があるのかもしれない。「そういう時代だから、ぼくたち『普通』の人が割を食っちゃうんだよね」。

そこに加えて、「でも自分たちは彼らとは違う」という優越感もほんのりと混じっている気がする。少なくとも、ぼくはそういう気持ちになってしまうことがある。

よく考えると、ぼくが「普通」であったことは一度もない

とはいえ、よく考えると、ぼくは決して「普通」ではない。

たしかに若い頃は、遅くまでバリバリと仕事をしていた。その頃はただ「がんばる」ことだけが正解だったので、あまり心配ごとはなかった気がする。

だけど、子どもができたあたりから、そうもいかなくなってきた。うちは共働きで、妻のほうが早く始業する。ぼくは毎朝、子どもを保育園に送らないといけない。そのため、早朝の会議や移動がしづらくなった。それを得意先の前でおそるおそる切り出すのが、すごく辛かったことを思い出す。

また、コピーライターのキャリアを終わらせて、違う職種に異動したときも大変だった。周りの同僚はみんな数字やデータが得意で、調査や分析も簡単にやってのける。でも、ぼくはみんなの「普通」に全然ついていけなかった。彼らがぼくを見るときの、あわれむような目を思い出すと、今でもちょっと泣きそうになる。

最近は年を取って、物忘れもひどくなったし、若い頃のように夜遅くまで集中力を保つこともできなくなった。なんといっても……小さい文字が見えない!これは、自分がなってみないとわからないかもしれない。Zoomで共有してもらっている画面を「す、すみません……もう少しだけ大きくしてください」とお願いするときの、なんとみじめなことか!

この通り、ぼくひとりの会社人生だけでも、いろんな変化が起こり、仕事がスムーズにすすまない状況が何度も生まれているのである。

「多様性」について考えるのは、自分の「いつか」「もしも」について考えること

年を取ればとるほど、それまでは思いもよらなかった「まさか自分が……」という経験が増えていく。

ぼくは育児、異動、加齢といった状況の変化によって、いろんなピンチに直面してきた。これからも、いくつものピンチが待っているだろう。なにか大きな病気にかかるかもしれないし、子育てと親の介護が同時にやってくる可能性もある。あるいは、自分の国の言葉が通じない環境で仕事をすることもあるかもしれない。

もちろん、そういうことを回避したり、うまく対処するための個人の努力は必要だと思う。だけど人生には、個人の努力だけではどうにもならないことがたくさんある。どんなにすごい人でも、ずっと問題を解決できるとはかぎらない。誰もがスーパーマンではないのだから。若い頃から自信満々に働き続け、年を取ったいま、ぼくにはそれが実感としてわかる。

その視点を、他人に向けてみる。

病を抱えながら働いている人、介護で大変な人、外国から来た人……。みんなぼくの「いつか」ありえた姿である。「もしも」自分がそうなったらどうすればいいのか?

「多様性」について考えること。それは過去の自分、未来の自分、あるいは、そうだったかもしれない自分。そうした自分自身の可能性について、考えることなんじゃないかな。

次は、あなたの番です

ここで、はじめの「『多様』な人たちだけが特別扱いされて、自分だけがじっと我慢しているなんて不公平」という、ぼくのモヤモヤした気持ちに対して、あらためてこう答えたい。

「大丈夫、次はぼくの番だから!」

人生には、山があって谷がある。困難にぶつかったときは、まわりの人がカバーし、チームで支えあう。そうやって、なんとかみんなで乗り越えていく。そう考えると「『多様性』とかなんだか不公平」という前に、お互いによくがんばっているよね、とねぎらい合えばいいだけかもしれない。いやあ、なんだかんだあるけど、どうにか力を合わせてやってこれているよね、と。

ついでに、自分が本当は「普通」でないことも、ちょっとだけ打ち明けてみるのはどうだろう。お互いの「多様」さに気づき、自分とは違う人生を生きている人と、その時間を分かちあえる。それって、すごく素晴らしいことじゃないかな。

ふりかえると、ぼくは本当にいろんな人たちに助けられたなと思う。

得意先との大事な定例会を、先方と粘り強くかけあって、子どもを保育園に送ってからでも参加できる時間に変えてくれた人がいた。ぼくが数字やデータが苦手でも決してバカにせず、なんとか結論を出せるところまで付き合ってくれた人がいた。そして最近は、黙っていてもZoomの画面を大きくしてくれる心優しい人もいる!

ぼくは、あらゆる人が集まる会社という場所は、なんてあたたかいのだろうと感じている。

お互いの違いを認め合い、足りないところを補い合い、助け合うことで、ともに今日という日を乗り越えている。そうか、ぼくらはいつも「多様」の中にいるんだな。

もっともっと多様でありたい

よく考えてみると、ぼくがコピーライターだった若かりし頃、個性を強くもつことが何よりも大切だった。まわりと違う視点、独自の発想こそが価値になると信じてきた。

でもいつのまにか、まわりの空気を読んで、みんなと足並みを揃えて、同じことを考えているフリをして……。そんなつまらない大人になってしまっていた。「多様」という言葉にネガティブな反応をしてしまうのも、なにか大事なものを忘れてしまっている証拠かもしれない。

べつに、年を取ったら個性を捨てなければいけない、なんて誰も言ってない。むしろ、ほっといても「普通」ではいられないのである。ここまで書いてきて、ぼくはあらためて、自分の個性を大切にしたいと思うことができた。

「多様性」を考えるうえで大切なこと。それは、他人だけでなく、自分が大切にしている物事にも、ちゃんと素直になることかもしれない。

そういえば、昔上司から「自分の世界を持ちなさい」と教わった。みんなと同じものを食べ、みんなと同じように遊び、みんなと同じことを考えていても、独創的なアイデアは生まれない。時には孤独な道を選び、自分だけが見える景色を探しに行きなさい、と。それなのに、いまのいままですっかり忘れていた……なんてことだ!

……こうしちゃいられない。ぼくも「多様」な人類の一員として、まだ見ぬ世界へ冒険に出かけなければ!そんなわけで、失礼!

※この記事は、サイボウズ式特集「多様性、なんで避けてしまうんだろう」の連載記事として2022年2月24日に公開されたものです。

イラスト:マツナガエイコ

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